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下羽黒神社

下羽黒神社(大町)
七羽黒神社の中心の神社。
1481年(文明13年)この地に下館城を築いた水谷勝氏公が領内の安全を願い、山形県出羽三山の羽黒大神をお迎えしたのが始まりです。
お本殿は1634年(寛永11年)に建立され、1730年(享保15年)に一部改修されました。羽黒神社創建以前よりお祭りされていた愛宕神社の歴史は古く、鎌倉時代の御神像や狛犬が県文化財に指定されています。

平成14年本殿が茨城県文化財(建造物)に指定。

上羽黒神社(岡芹)
下館城の最も重要な天門、城の搦手の岡芹村に建立。上羽黒神社の本殿、拝殿はよく創建時の状態を維持。
平成14年、茨城県文化財(建造物)に指定された。
拝殿は、茅葺の上に亜鉛鉄板葺きにしてある。建築は本殿と同じ時期。ヒノキ材を主として一部ケヤキ材を使用。正面の間斗束(かんとづか)を発束とする古い形式である。
絵馬は、江戸前期(1638年)の作、木造ヒノキ材98センチ横130センチに金箔を押し、その中に彩色の馬が描かれている、下館8代城主・勝隆の息子勝宗の息災、武運長久を祈願して家老の鶴見内蔵之助が奉納したものである

上羽黒神社

​下岡崎羽黒神社

​下岡崎羽黒神社
金井町薬師堂、菅谷神明宮と大きな結界を形成する水谷家の重要な神社です。
本殿、拝殿は鷹場町火災(昭和31年4月21日)により消失、同年11月5日に再建した。

言い伝えによれば、境内には、願掛け石があり、夜半人に知られず、持ち上げて願をかけると成就するという。鷹場町火災はここで鎮火したと言われている。
​末社の疱瘡神社は村の氏子中によって元禄6年(1693年)建立されたものである。

外塚羽黒神社
城の搦手の岡芹と城域に通づる西口の要衝であった。

外塚羽黒神社は境内155余坪。祭神大己貴命(おおなむちのみこと)大国様。昭和55年に区画整理事業により現在地に移された。以前は境内が船の形であったことから船羽黒と呼ばれていた。また社跡には縄文後期から弥生時代の複合遺跡があり、「外塚遺跡」と呼ばれている

​外塚羽黒神社

大根田羽黒神社

大根田羽黒神社(栃木県)
天文14年(1545年)に、領土の守護神として大根田と口戸に羽黒神社を勧請いたしました。
慶長12年1607年)家臣の九代上野庄蔵・藤原栄信は、大根田に移住し、寛永16年(1639年)に下館藩主・水谷勝隆(八代)が備中松山に移封した時には、帰農して再建を行なっている。二十五代上の徳蔵の時、昭和33年7月23日の駿河湾台風11号により本殿が崩壊し、石の社で37年間守り伝えてきた。
二十六代・上野義近は先祖の意思を継ぎ、平成7年12月9日に再建し本殿造営正
遷座祭を行った。

口戸羽黒神社
​天文12年(1543年)に入道した水谷正村(六代)は、蟠龍斎と号し、領土拡張のためにまず久下田城を新築して、宇都宮方の大勢力と対抗し、戦うこと13年にして大根田郷八木岡村、滋賀郡田野城を攻略して田野5村を領有して北方に領土拡張し、後には中郡庄を幾度かのがせんによって完全に我が掌中に収めた。当時から地元では「畑にじしばり、田にびるも、久下田に幡龍なけりゃよい」と恐れられてきた。こうして四十余り郷の守護神として七hグロ神社は下館を守る軍事上の櫓として人々に尊崇されてきた。口戸村は「杉山私記」によれば、下野の国への入り口故に口を上に、その下に家の戸の文字を置き口戸村とした。この辺りには村民が住んでいたといわれ、神社のお祭りには幟を立てて祝う習わしです。

​口戸羽黒神社

​竹島神社

竹島神社
​七羽黒の中で唯一、名称が「羽黒神社」ではないのが、この竹島神社。様々な著書でも諸説ある七羽黒。下館城の北東の守り神だった稲野辺羽黒だが、明治44年に稲野辺羽黒を含む周辺のいくつかの神社をまとめて、翌45年、竹島神社を新しく作った時に、羽黒神社の神様もその中に一緒に祀られることとなり、七羽黒として数えられている。境内にはもうひとつの鳥居があり、その先には戦没者慰霊のための忠魂碑が建てられている。狛犬は昭和3年の御大典記念(昭和天皇即位礼の記念)に奉納されたもののようです

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